<渡米までの簡単ないきさつ>
日本の受験制度への反抗や、身の回りの事情と、それから本当にやりたいことが決まらなかったという幾つかの理由から、ただ単にみんながするからとするという受験だけはしたくないと思い、大学受験はしませんでした。そうするうちに、いろいろな不思議なめぐり合いなどから、医療に携わることへの願望が整ってきたのでした。相談した相手は、私が第三諸国の医療などにも興味を持っていることもあり、「今からするなら、そして世界で通用する看護力を得たいなら、最初からアメリカでBSNを目指すように。」と助言してくださいました。その理由がその当時本当に分かったとはいえなかったのですが、教育制度の違いや看護専門職種の幅広さなどを、その方は教えてくださいました。たまたまいろいろ考え始めたころに、某新聞で欧米又アジア各国の看護教育の比較が取り上げられたことから、当時日本国内では4年生の看護教育をしているところが6校しかなく、大学院教育はまだ形になっていないということを知りました。そういった理由により、高校を出て2年経った夏に単身で渡米することになりました。高校卒業後2年働いた間に、少しだけれど資金をためることが出来ました。それが今から15年以上前のことになります。
<多忙で大変な大学生活も4年目を迎えました・・・>
大学4年生になったとき、このまま日本へ帰ってもまだ出来ることは何もないという気持ちになりました。Practical Training Visaのスポンサーになってくれる病院を探すべく就職活動を始めました。幸い、通っていた学校の卒業生は、どこに行っても非常に評判がよく、就職活動自体はそう難しくありませんでした。長期の契約をすることプラスessayを書くことで、数千ドルの学費をスカラシップとして頂くほどでした。ところがどこの病院も日本人スタッフを扱った前例がなく、手続きは手伝って貰えないとのこと。学校側も同様、前例がないという理由でINSへ送る書類に必要事項を書き込む以外は結局何も力になってもらえませんでした。今までにPractical Trainingで許可が下りた記録がないといわれたのです。仕方がないので、自分で必要書類を準備してINSへ送ってみましたが、卒業近くになっても音沙汰なしでした。
なんだか意地が出てきて、片っ端からいろいろな地元のおもだった人に電話をしました。しかし地元の人の力ぐらいではINSは動かせないことが分かり、次はSenatorに頼ってみることにしました。ワシントンDCのSenatorの秘書さんと電話で話したあの15分は今でもドキドキしたのを思い出します。その当時の看護婦不足の状況や、勉強したことを実際に使って生かしたいという気持ち、などなど必死に英語で熱意を伝えようと、わけの分からないことまで言ったような気がしますが、電話の最後に、「分かりました、INSへの働きかけをします。」と秘書さんは一言いってくれました。でもそれが実際どういう形で効果を現すのか分からなかったので、その数日後にPractical Training Visaの労働許可証が届いた時には本当にびっくりしました。すぐに待ってくれていた病院のCCUのNurse Managerに連絡をして、次の日から待ちに待った仕事を始められる事になりました。
その24ベッドあるCCUでは、とても中身の濃いNew Gradオリエンテーションをしてもらいました。 大学時代のCritical Careのプログラムコースは、講義も実習(ICU・CCU・OHU・ORなど)も含めて、3年生で丸一学期みっちり取らなければならなかったし、4年生最後の丸6週間の(毎日8時間、週4日) Extern Practicum をERで過ごしたこともあり、この分野に関してはたくさん学んで卒業したつもりでしたが、現場に出てからまだこんなに覚えることがあったのかと本当に感心してしまいました。あのオリエンテーションなしでは絶対にあそこまでいろいろ出来るように成長できなかったのではと思います。そこでの1年の経験は、本当に充実していて、その後行くところ行くところで役立ちました。もっと長くいられたらもっと早く成長できたのでは・・・と思います。
1年しかそこにいられなかったのは理由があります。その病院では、H-1VISAをスポンサーしてくれるはずだったのですが、Practical Training Visaが切れる2ヶ月前になって雇用状況が変わり、外国人のスポンサーは出来ないことになってしまったのです。周りのみんなもどうにか私がいられるようにといろいろ考えてはくれて、「形だけ結婚しちゃえば」といって相手のボランティアが出てくるほどで、仲間たちの気持ちはうれしかったのですが、どうにもなりませんでした。Nurse Managerがじきじきに、地元のおもだった人に電話を入れてくれたりもしましたが、やはりどうにもなりませんでした。
つまり外国人を必要としている病院を探さねばならないというわけです。 また意地が出てきました。それから数週間、毎日起きていて仕事をしていない時間は電話に釘づけになり、全米数10件の病院と連絡を取りました。Practical Trainingが切れる直前か、直後にようやくたどり着いたのがTraveling NursingのAgencyで、行きたくない所へ行く事になるかも知れないけれど、H-1ビザが14日で出るということで契約を交わし書類を送ることにしました。2週間後、本当にVisaが届きました。
よっぽど人を必要としている僻地の病院へ行くことになるのかなあと思っていたら、Virgin諸島のセントトーマス島のICUへの契約が決まりました。それから2週間後に一人でセントトーマス島の飛行場に降り立った時は心細いの一言でした。でもアメリカの領土内で働き続けることが出来るようになった訳だから自分にとっては成功だったと言い聞かせて、涙をこらえました。セントトーマスの人の英語は癖があって最初は別の外国語だと思ったほどで、ヒアリングのやり直しになりました。最初の晩にMcDonaldのお姉さんの英語が聞き取れず、下手に「Yes」 とか「No」とか言ってしまい、オーダーと違うものが出てきてしまいました。でも幸い、割とすぐに慣れて友達もふえました。住んだ家はプールつきのビーチを見下ろす素敵な所で、ハイビスカスがきれいでイグアナも庭にいました。休みごとにスノーケルをしたり隣のST John島を探検したり、プエルトリコへ足を伸ばしたり、そこでしか出来ないことを楽しむことにしました。病院内は70%がアメリカ本土からのTravelingの会社からの派遣のナースたちでした。何よりも楽しかったのは、その中の20−30%ぐらいはオーストラリア人・カナダ人・イギリス人が占めていて、とてもInternationalな雰囲気だったことでした。アジア系は私一人でした。遊びたいと思えばいくらでも遊べるところで、遊びすぎて麻薬などでだめになってしまった人もいました。幸い私はよい友達が出来て、楽しく健康的に遊んでいたという感じです。それから、そこで6ヶ月を終えて島を後にし、次はボルティモアのJohns Hopkinsと数ヶ月の契約をしました。
ボルティモアのJohns HopkinsではCardiothoracic, ICUに勤務となり、多種移植患者、バイパスの患者などで忙しく、大変よい経験をさせてもらったと思います。その病院ではグリーンカード(GC)をスポンサーするから、Travelingの会社を辞めてStaffにならないかと言ってもらえたのですが、以前から遠距離関係を続けていた主人と結婚して落ち着くことにしました。
<結婚、そしてGC申請>
結婚後、H-1がまだ切れていなかったのですが、すぐにGCの申請準備をし始めました。けちな私は、Lawyerじゃなくては出来ないことってなんだろうという興味津々なのと、結婚式などで貯金が減っていたこともあり自分でやってみることにしました。難しいというよりも面倒臭かったというのが私の印象です。申請して4-5ヶ月後に労働許可が出て、1年後にGCの面接を受けました。INSのおじさんは、赤毛でそばかす顔の純北欧系の顔の主人と、長身だけれど顔は日本人そのものの私の2人を見比べて何か言いたそうな様子でした。「変な顔の子供が生まれるのではって思っているのですか」と聞きたいのをこらえて向こうの質問にだけまじめに答えました。職業を聞かれて、当時主人は大学院生、私はナースということで、INSのおじさんは主人に向かって、「卒業したら奥さんに好きな勉強をさせてあげるといいね」なんて言っていたのを思い出します。確かにINSの待合室には何とも言えない容貌のカップルもいて、INSのおじさんも結構楽しんで人を見ているんだなという気がしました。
さてGC持ってから8年、RNになってから12年目になりました。その間にひとりのかけがえのない存在Kentoも授かり彼ももう5歳まで成長してくれました。子供を持って働いたり勉強したりするのは大変なことですが、主人を初めいろいろな方の励ましで、ここまでこられたのだと思います。
今までいろいろなところで働いてきたけれど過去8年は、NICUを専門にしてきて本当によかったと思います。NICUは4ヶ所経験しました。それぞれ病院毎に多種多様で、どこへ行っても学ぶことには尽きません。現在は大学院を卒業したばかりで12月に新生児医科ナースプラクティショナーの試験を控えています。1人前のナースプラクティショナー(NP)になるのにどの位かかるかわかりません。新しいことを始めるということで、トーテムポールの一番下にいる気持ちで、正直言って怖いというか、自信もありません。でも、今までやって来たのとおなじ精神で一歩一歩前進していく以外は現状を向上させる手段はないことは自分が一番分かっているんだと思います。
最後に私事になりますが、大学院卒業直前(今年の8月)に、乳がんの疑いに自分で気がつきました。卒業直後からいろいろな検査をして、9月から治療を開始しました。自分でもたくさんの研究文献を読みました。また専門のドクターやナースなどといろいろ話し合い、自分を含め周りも非常に納得した形で治療を始めることが出来ました。今は、ドクターにもナースにも思いっきり甘えています。
仕事の方ですが、所属の病院にはClinical Staffing Resourcesという部署があり、この部署のManagerの深い理解のおかげで、12時間勤務をしないですむOccupational
Healthやがんセンターの外来、それからCase Managementなど、今の自分の状況にフィットする形で雇用していただいています。NPの職につくのは、来年落ち着いてからになると思っています。
現在医療を受ける側の患者になって、ますます自分の選んだナースの道を誇りに思うようになりました。NPの試験に向けて勉強をしながら、自分にとっては新しい分野に当たるOncologyについても、ちょっと首を突っ込んで視野を広めるチャンスだと思っています。つまり、Nursingの職種の広さや深さを、今、患者の経験を通して実感しているところなのです。
今頑張ってRNに向けて努力している方、RNになられたばかりの方、勉強中の方、心から応援しています。大きな夢を持って、ゴールに向けて、経験を積み上げてくださいね。この職業は積み重ねの連続だと思います。私もまだまだこれからです。
一緒にがんばっていきましょう!「やりがいありますよーーーー。」
(2002年10月 Breast Cancer Awareness Monthの記念に・・・ HN:Kento no Mama)