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ヨセミテの切り立った谷底、つまり今のヨセミテ・バレーは野原が広がり森も点在する、のどかな自然あふれるオアシスだった。そんなすべてを与えてくれる谷間は、まわりからの危害も無く今から3000年〜4000年も前から、先住民であるアワニチスと名乗るミワォーク族の一派のインディアンが住んでいた。彼らは谷間の自然を壊さず、倒木の皮で家を作り、辺りの自然の恵みをえて生きていた。今もその住居跡がバレーの一角に再現され一般公開されている。こうした先住民のインディアンの言葉や酋長の名前が、今のヨセミテ内の地名や様々な名前に使われているのも事実である。

1849年10月ゴールドラッシュの全盛期、二人の金鉱夫が谷を訪れた。探索中、西側の見晴らしのいい所にやってきた二人は、そこから見えた谷の切り立った絶壁を見て、ただ呆然とするばかりだったらしい・・・ これが最初のヨセミテの発見だったのだ。

やがて金鉱夫達は谷に住みはじめた。そして川を止め、動物を大量に捕獲、森林を無造作に伐採し、その結果バレー周辺は無残な姿に変貌していったのだ。あげくの果てはインディアンをも射殺したり婦女を暴行するに至ってしまった。怒ったインディアン達は仕返しに出たが、以前の平和な生活は完全に無くなってしまった。やがてカルフォルニア知事ひきいる、200名にもおよぶマリポサ司令隊がインディアン抑圧にでたのである。1851年3月、司令隊は山へ踏み込みインディアンを一人残らず集め、フレズノの保留所に連れて行こうとしたが、途中多くのインディアンは逃げてしまった。ようするに失敗である。

若い軍医の一人がインディアンはこの谷間を「ヨセミティ」と呼んでいると勘違いし、そのままヨセミテと名付けたれたのが由来である。その後しばらくは白人とインディアンの争いは続いたが、やがてインディアンの姿は谷間から減り、そして観光客の群れが野道を踏み締めてヨセミテに向かってきた。その人数は毎年増える一方1855年、数組の鉱夫達がやってきた。その中の一人である、ゲイラン・クラークは持病の肺結核を患っていた。金鉱探しに来ていたはずの彼は、それも断念しログキャビンで宿を営む事になる。またゲイラン・クラークは今もヨセミテで人気の高い観光地で、世界一大きな植物が生い茂るジャイアント・セコイアの森、マリポサ・グローブの発見者で世に発表した人でもある。のちに各界の重要人物がマリポサ・グローブを訪れるようなるとヨセミテの素晴らしさを紹介しつつ、その保護も訴えるようになった。そして国会はヨセミテ・グラントという保護法を1864年6月30日に認可した。

マリポサ・グローブとヨセミテ・バレーがカルフォルニア州による管理が始まった8年後、アメリカで始めての国立公園に指定されたイエローストーンは、このヨセミテ・グラントが土台となり、できたと言っても過言ではないだろう。しだいに色々な国籍の人が土地使用料を州に払いつつ、宿を経営し観光客を呼んだのである。観光客は一日、馬や馬車に揺られヨセミテにやって来るようになったが、その数は1855年〜1868年までの総数は3000人以下。が、それも1869年になると年間総数だけで1100人になり、大陸横断鉄道が完成すると年間4000人を超えたのである。観光客が増える一方、1870年代にはインディアンの数は50人以下になり、白人のもとで働くようになった。そうして二種類の文化が入り混じり、新しい生活が始まったである。しかし昔からのインディアンの伝統的な物は堅く守られ、今でも売られている手編みのバスケットも1890年代から観光客に売られていたらしい。

1868年、ある人物がヨセミテを訪れた。スコットランド出身のジョン・ミュアである。彼はすでに30才、その後このアメリカの自然保護に一生尽くすとは、思っていなかったであろう。翌年ジョンは、羊飼いと2000頭の羊を引連れ、一夏をヨセミテで過ごす。しかしその羊が美しい草原を食いつくし、自然を荒廃していくようすを自分の目で見ている。そして生涯、自然環境保護に力を尽くす事を決心したのだった。そして1869年ジョン自身もヨセミテに移り住んできた。彼の詳しい事は別欄で紹介しているので読んで欲しい。

1889年6月、ヨセミテに調査ツアーの一団が訪れた。その中にニューヨークの有名な雑誌社、センチュリー・マガジンの編集長であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの顔も見受けられた。その一行をジョンはツアーガイドしたのである。そしてヨセミテは野生動物の姿が消え、犬、牛、馬と人間が持ち込んだ家畜が支配しているとジョンは訴えた。ツアーのある晩の事である。ジョンとセンチュリー・マガジン社のロバートは焚き火を囲みながら、ヨセミテ・バレー一帯を国立公園に指定する計画を練った。そして国会に申請案を提出し、何と13ヶ月で承認されてしまったのだ。

アメリカで最初の国立公園、イエローストーンのようにヨセミテも陸軍の管理のもと、公園内の羊飼いを追い出し、牛や馬などの家畜を追放した。しかし州政府と軍との間に色々な禁止条例のくいちがいがあり、責任のなすりつけなどの管理に摩擦が生じていた。それを見ていたカルフォルニア州の市民達は、公園の保護管理は中央政府しかないと結論ずけたのである。そこでジョン・ミュアは州政府はヨセミテ一帯を中央政府に返還すべきだと、センチュリー・マガジン社のロバートの協力を得て、キャンペーンを始めたのだった。ジョンは他にも強い支援者がいた。特に1892年自ら設立したシェラクラブ、1903年にヨセミテを訪れたテオドール・ルーズベルト大統領、鉄道会社のエドワード・H・ハリマン、いずれもみんな強い支援者である。そしてついに1906年6月11日にルーズベルト大統領によりこの法案が調印されたのである。

また同年には二つの大事が起きた。一つはサンフランシスコに大震災が起き、この年のヨセミテの観光客が半減してしまった。二つ目はマーセドとエルポータルを結ぶヨセミテ・バレー鉄道が開業。そして減っていた観光客も徐々に増えていったのである。同6月にヨセミテ・バレー周辺も、ヨセミテ国立公園に加えられ事が正式に認められた。

そしていよいよ自動車社会が訪れるのである。1906年6月に初めてヨセミテに自動車がお目見えしたものの、1913年8月まではバレー内は運転禁止であった。自動車の数は徐々に増え、1914年には739台、1915年には2270台がヨセミテ入りをはたしている。あのジョン・ミュアも自動車たる物、反対はしてはおらず逆に歓迎していたようだ。それは今現在が、排気ガス公害になるとは誰もが思わなかったからである。

1914年までにアメリカは12の国立公園、19の国定公園を定めたが、どれもが陸軍省によって管理されていた。しかし第一次世界大戦がおきると兵士達は任務を果たすべくヨセミテを後にし、代わりに新しく国立公園管理局が創設。1916年にはその数も増え、国立公園が77ヶ所にもなった。この国立公園管理局が基盤となり、日本の国立公園の管理、運営がなされているのも事実である。その任務の主旨は・・・

自然、歴史、そして野生の生き物をあるがままの状態で保存し、将来に訪れる人々の喜びに応えられるよう努力していこう。

と、なっている。

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