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ジョン・ミュアは1838年4月、スコットランドの小さな港町ダンバーで8人兄弟の3番目の長男として生まれた。小さい頃から自然の中で遊ぶのが大好きな子で、海や山、所かまわず野生生物を探し回っていた。ゴールドラッシュの1849年11歳の時、アメリカに入植。その後家族で開拓に追われながらも1861年ウイスコンシン大学に入学した。そして南北戦争が勃発し3年後、徴兵を逃れるためカナダに弟と放浪の旅に出かける。数ヶ月後、弟の薦めで技術者として働きはじめ、得意である発明にも力を入れた。ジョンの発明はアメリカでもトップレベルに達していたが、あえて発明技術者としての将来を捨て、神の発明である自然の中でこれからの人生を送ろうと決心したのだ。そして2年後、ケンタッキーからフロリダまで1000マイルの放浪の旅に出る。植物採取をしながらフロリダに着いたジョンは、そこでマラリアにかかってしまい、親切な村人に看病されながら生死の境を3ヶ月もそこで過ごす。その後、体調が完全でないため、当初の予定である南米行きをあきらめ、空気の良いカルフォルニアへと船で渡ったのです。
ジョンが降り立ったのは、カルフォルニアのサンフランシスコ。1846年には人口わずか50人足らずの小さな村でしたが、ゴールドラッシュで世界中の人がそこに集まり、ジョンが着いた1868年には15万人の大都会に変貌していた。そうした都会が嫌いなジョンは、いち早くここを脱出したく船の中で聞いていたヨセミテに向かったのです。その頃のジョンの日記や記録がないため、はっきりとした行動は分かっていないが数日後初めてのヨセミテを目にする。ジョンにとってヨセミテは、あまりにも偉大すぎて日記すら書く事を忘れてしまったようだ。
そしてとりあえず10日間のヨセミテ散策を終え、食料も底をついてきたのでひとまずは山を降りたが、すかっりヨセミテのとりこになってしまったジョンは、近々きっと戻ってくると決意した。とにかく、一度山を下り再びヨセミテに戻るための資金作りや、残してきた家族への仕送りをするため牧場で働く。仕事をしながらでも植物採集や動物観察をし、充実した日々を読書や研究に費やしていた。翌年、ジョンに幸運が回ってきた。羊飼いと共に2000頭あまりの羊を連れ、ヨセミテのツオルムン草原で一夏を過ごすと言う願ってもない仕事だ。ジョンは羊の世話をするのではなく、全体の監視をするだけで、後の時間は自由である。よって時間が豊富にあるため、ヨセミテを隅から隅まで観察し植物や地形の研究もした。そこでジョンは、このヨセミテは何かの大きな力の移動によって作られたと仮説を立てる。後に70年にも及ぶ氷河論争の始まりだった。一夏をヨセミテのシェラネバダで過ごしたジョンは、すっかりヨセミテのとりことなり、完全にシェラネバダの自然の中へとのめり込んでいった。
一度山を下り、再びヨセミテに戻ったのは1869年の11月の事。その頃、観光客が急速に増える中、運良くホテルの仕事にジョンはつけた。そして合間をぬっては自然相手の植物学や地質学の研究に没頭し、翌年ヨセミテの中心にそびえ立つマウント・ホッフマンに登った時、このヨセミテは古代、氷河の移動によって形成されたと確信をしたのだった。一方、地質学界の最高権威、ジョシュア・D・ホイットニーは、数年前にヨセミテの地質調査をした事にもとづき、ヨセミテ渓谷のできた要因として地震か何か激しい地殻変動によって、局部的に沈下してできたと世に示したのである。ホイットニー自身は氷河の存在は認めているが、氷河によって地形を変えたとは考えていなかった。そこでジョンは自分の説が正しいと分かった今、ホイットニーと闘うしかないと決める。結局ジョンが他界するまで結論はでず、70年後に連邦地質調査局からの地質学者、フランソワ・マッツェの17年間の調査にもとづき、氷河論争はジョンに軍配があがった。
1870年10月にジョンはまた一度山を下りている。氷河論争以来すっかり一方の主役になってしまった彼のもとには、大勢の人が訪れるようになった。それを逃れるため以前働いていた牧場に向ったのです。再び山に戻ったのは、翌年の1月。またホテルの仕事に戻ったジョンは反面、氷河論争でヨセミテの英雄にまでなってしまった。ホテルの経営者、ジェイムス・M・ハッチングスは、元サンフランシスコのジャーナリストであり、ヨセミテの魅力をはじめて一般の人に広めた人でもあった。そして、ヨセミテのパイオニアとも呼ばれた彼は、すっかり英雄的存在になったジョンに対し、屈折な気持ちを持ち始めていた。それに気付いたジョンはこうした人間関係に嫌気がさし、清算するためにも彼との関係をすべて絶つことを決意する。ホテルを辞めても当面の蓄えを持っているので、本格的にウイルダネス放浪に出かける事にした。
そして一歩一歩ヨセミテの奥へと足を踏み入れるようになる。そんなある日、ヨセミテ渓谷に戻ってきた時、おそらく彼の人生にはかりしれないほど大きな影響を与えた、ある人物が待っていた。19世紀のアメリカを代表する思想家であり詩人で、当時のアメリカの文学界や言論界の中心人物である、ラルフ・フォルド・エマソンである。数日間の滞在の中、二人は幾度と自然や人間、神について存分に意見を交換する事ができた。そしてジョンはエマソンを永遠の師と仰ぎ、畏敬の念を抱いたのだった。
大陸横断鉄道が完成した1869年、東海岸より大物人物が次々とジョン・ミュアを訪ねてくる。その中の一人、マサチューセツ工科大学のジョン・ダニエル・ランクル学長は、5日間の旅をともにしてボストン科学アカデミーに論文を書くように勧められる。しかしジョンは消極的で迷っていたが、このままナチュラリストとして静かに山の中で生活するか、それとも科学者として公の立場になるか、二者一択を追いられていたのであった。ジョンの研究対象は、氷河だけではなく植物学をはじめ、自然一般の広い視野で見ている。そして後日決心すると、「氷河の死」「ヨセミテの氷河」と次々と発表。つまり処女作であるこれらは、大きな反響を呼ぶ事になり、原稿料としてはじめて書く事で200ドルの収入があった。そして、今後ペンワークにて生活費を得ることができるやもしれない、とジョンは気が付いたのです。1872年1月、新たに「冬のヨセミテ」を発表。やがて3度目の春が来たころ、ジョンは自分の城をヨセミテ渓谷の奥まった所に建てた。
彼は食料補給とデーターや標本の整理に帰る以外は、勢力的にハイシアラ探査を行い、やがてヨセミテだけではなくシェラネバダ一帯に目を向けるようになっていた。やがて三度目の春が過ぎ、友達である画家のキースに勧められ、ジョン自身をリフレッシュするため一度山を下りる。しかし、一種のカルチャーショックが彼を襲い、たったの二週間でヨセミテに逃げ帰ってきた。秋、シェラネバダ山脈全域踏破の旅に出かけ途中、今のキングスキャニオン国立公園とセコイア国立公園に立ち寄り、点々と散らばるセコイヤの森を訪れた。そこで世界で一番大きい生き物であるセコイヤの巨木の森が、大変な勢いで破壊されつつ事を目にし大きなショックを受けた。このときすでにジョンは、"書く"と言う事で社会との接点を持っている。書くという事の力、影響力の大きさを知っているジョンは、ヨセミテに帰るなり自ら山を下り執筆活動に力を入れた。氷河研究の集大成的な七編からなる「シェラ研究」を書き上げ、再びヨセミテに戻ったのは十ヶ月後だった。そんな執筆活動のなか、ある人の紹介で後の妻になるルイーとお見合いをしている。
ヨセミテに戻ったジョンは、どこか今までと違う自分を感じていた。それは氷河というテーマは捨てられないが、「自然保護」への道を具体的に意識し始めたのであった。1875年、今度は三ヶ月にわたるセコイヤの探査旅行にでた。セコイヤの群生する森の境界線状況を詳しく調べ、いくつもの森を発見し、何百本という巨木を測定、記録した。そこでこのセコイヤは、世界中この限られた特殊な環境のもとでしか生育せず、シェラネバダ山中以外どこにも見られない事が分かったのである。そのセコイヤの森が製材会社によって広大な面積の巨木の森が破壊され、失われていくさまを目撃している。その年の十一月サンフランシスコに戻ったジョンは、友達とセコイヤの森とウイルダネスをどうやって守るか議論しあい、はじめて政治的活動に動きはじめる。まずはカルフォルニア州政府宛に森林をしっかりした管理を促す内容の文章を提出。後日、サクラメントの新聞に掲載され、人々の大きな反響をよんだ。
1879年、今度は氷河を求めアラスカに遠征。海沿いを全工程1300キロにも及ぶカヌーの旅である。そこで発見したのは、まさしく本物の巨大な氷河でどれもが直接、海に流れ込むいくつものの氷河だった。そしてその氷河たちには一つ一つ命名をし、最後に発見した巨大な氷河は、後の "ミュア グレイシャー" となる。こうして再びサンフランシスコに戻ったのが翌年の2月だった。そしてジョンに向えたのは一生一度の大イベントの結婚である。三年ほど前にお見合いをした、サンフランシスコ郊外のマルチネズで果樹園を営む、ストレンゼル家の一人娘ルイーと結婚。その時、ジョンはすでに四十歳だった。ジョンは、ルイーと一つの約束をしていた。それは、一年に一度はウイルダネスに出かけるという事だ。結婚後、果樹園で働きはじめたが7月になると約束通りウイルダネスに向った。2回目のアラスカ探検である。そして2度目のアラスカ探検から帰るとルイーの父親の健康状態が思わしくなくなり、農園経営に没頭する。そんな中、1881年の秋から冬にかけてシェラネバダの自然を守るための二つの法案を考え、その法案はカルフォルニア選出の上院議員によって連邦議会に提出された。しかし上院の公有地委員会も通過できずに終わってしまう。その年の三月、長女ワンダが生まれ農場内の小さな丘の上にヴィクトリア調の家を建て引っ越している。この家は今もそのまま残っていて、国が保存しているので、後に紹介しよう。
法案提出の失敗により意気消沈したジョンは、ますます農場経営に没頭し表だった活動はほとんどせず、執筆活動や講演もしなくなってした。そうして年々、夫の体の体調が悪くなると見えた妻のルイーは、少し仕事を休み約束のウイルダネスに行くよう説得したが、彼はいっこうに農園を心配し出かけようとはしなかった。そこでルイーは、「私をヨセミテに連れてって」とジョンに尋ねる。ルイーはヨセミテにまだ行った事はなく、これがはじめて夫婦でのヨセミテ訪問だった。翌年の夏、ジョンは突然、何かの力を感じ「父にもう一度会わなければ」と、急きょ十八年ぶりに東部の実家に帰る。そこで待っていたのは、病にふせった父の姿であった。数週間後家族に見守られながら父は息をひきとり、その時ジョンは長い放浪の末、父と私は互いに愛し合うことが今できたと感じたのだった。
翌年一月に次女のへレンが誕生した。しかし生まれつき虚弱で呼吸気管に障害をもって生まれた。よってジョンは、娘の病が心配でますます農園から離れられなくなりウイルダネスから遠のいている。1888年夏頃になると次女へレンの病状も落ちつきはじめ、ちょうどその頃、「自然研究書」への寄稿とその編集の仕事の以来があり、ルイーは是非この仕事を受けるよう強くジョンにすすめた。それは、暗く沈滞しているジョンの姿を見たルイーは、八年前の自然を愛するもとの夫に戻ってもらいたいが為、心より希望したい事だった。そしてジョンは動きだした。八年ぶりのウイルダネスの空気はあまりにも新鮮であり、彼に生きる力を大きく与えてくれた。仕事の取材も順調にすすみ、途中ルイーからの手紙で・・・
"農園の仕事はもう投げ捨て、あなたはアラスカとヨセミテの本を書くべきです。"
と励ましの言葉をもらう。こうしてジョンはルイーの協力と励ましにより、もとのウイルダネスをこよなく愛し、そしてペンワークに専念できる環境が再びできあがったのである。
翌年六月、ニューヨークで有力なセンチュリー誌の編集長が訪れ、一緒にヨセミテでキャンプをした。そこで5年ぶりに訪れたヨセミテの荒れた姿を目にし、ジョンの心は傷んだ。これは何らかの対応策を考えなければと一晩中二人で話し合い、国民全員がこれらの重大性を分かってもらおうと言うもの。そして、後にジョンが書いた「ヨセミテの宝」「ヨセミテ国立公園計画案の特徴」と二本の論文が相次いでセンチュリー誌に掲載された。この論文の反響がことのほか大きく、しだいに全国的な関心事となっていったのである。そして反対運動も激しかったがヨセミテ国立公園創設法案は連邦議会に提出され、ついに1890年10月1日にジョンの長年の悲願であったヨセミテ国立公園が発足。同時に今のキングスキャニオン国立公園一帯である、ジェネラル・グラント国立公園とセコイヤ国立公園も、ジョンが身を捧げてきたシェラネバダ山脈にいっきに三つの国立公園が誕生することになる。この年を契機にアメリカ国内の自然保護への流れが好転し、ジョンを中心とした議論が一般市民の中までも浸透していった。こうして市民団体の動きが活発になった頃、リーダー達の間に一つの試みが浮かんだ。「シェラクラブ」の設立である。市民レベルの自然への関心を高め、なおかつ自然保護運動を促進していくという団体で、その初代会長にジョン・ミュアが選出された。時に1892年5月、ジョン54歳の春だった。シェラクラブの活躍はめざましく、ジョンの名声はますます高まっていった。
1894年、初めての著書「The Mountains
of California」が出版されると、自然保護を唱える幅広い人々に読まれ、大きな反響を呼ぶ事になる。以後二年ほどは、とりたて何事もなく平穏で幸せな日々をすごしているが、1896年六月に母が亡くなり、ウイスコンシンに帰る。翌年、母校であるハーバード大学より名誉博士号を授与され、そんな中ジョンは毎年のようにアラスカに探検旅行に行き、生涯七回も遠征した。同じころアラスカ以外にもさまざまな旅をしている。若きころフロリダ半島に向かって歩いた所や、マラリアで死にかけた命を救ってくれた恩人に再会も果たした。そして数年後、時に1903年5月半ば、ある一人の男がジョンを訪ねてヨセミテにやってきた。セオドア・ルーズベルト大統領である。彼は1901年、当時のマッキンリー大統領が暗殺され、副大統領であったセオドア・ルーズベルトが大統領に昇進した男だ。ヨセミテにやってきたルーズベルト大統領は、ジョンと三泊四日の野外キャンプを共にする。以前より自然保護に力を入れていた大統領は、今後の森林や自然資源の保護についてジョンよりアドバイスがほしかったのである。以後、二人の関係は深い友情に結ばれ、アメリカの自然保護の歴史にはかりしれないほどの影響をもたらした。八年間の大統領在任中、新たに野生生物保護区を設置したのをはじめ、五つの国立公園、二十三の国立記念物を指定した歴史ある人物である。
ジョンは大統領とのキャンプが終えるとすぐに一年間にも及ぶ世界一周旅行に出かけた。65歳という高齢にもかかわらず驚くべきハードスケジュールをこなし、行く先々で植物を採集し、樹木を調査して歩いた。その途中、1904年4月ごろ日本にも立ち寄っている。そして、帰国後は忙しい日々を送っていたが、1905年8月6日ジョンにとって最高の理解者で25年間連れ添った妻、ルイーが肺癌のため亡くなった。ルイーの他界後、悲しみの底にいたが、二人の娘が再びマルチネズの自宅に戻ってきた事をきにすっかり元気を取りもどしていった。
1906年4月にサンフランシスコを巨大地震が襲った。マグネチュード8.3の激震で、壊滅的な被害と三日三晩燃え続いた火事で数千人の死者がでた。そして、その火事を消すにも消せない水不足の大きな問題がその後浮上したのである。以前よりヨセミテの北部に位置するヘッチヘッチー渓谷をダムにするという計画は、何度も連邦政府に申請はされたがその都度認められなかった。しかしこの期に大きな動きがあり、他にも候補地はあったものの反対するジョンにとっては最後の戦いの場となってしまった。しかし親友でもあるルーズベルト大統領の任期切れとも重なり、たよれるのはシェラクラブだけである。そのシェラクラブも賛成派と反対派の内部分裂の危機にたたされ、会長であるジョンは辞任をよぎなくされるのである。1913年3月、ダム建設賛成派の旗頭でもあるウィルソン大統領が就任する。そして法案は9月に下院を通過、12月に上院を通過した。その敗北前夜、ジョンは娘のヘレンに手紙を書いた。
"法案が成立したら、やっと私は楽になることができます。なぜなら、私の生命はその瞬間に終わるのです。"
一週間後、ウッドロー・ウィルソン大統領は法案にサインし、ヨセミテ国立公園の中のダム建設が正式に承認されたのだった。
クリスマスも近くなった1914年の12月、いつものように家族と夕食をとり暖炉の前で原稿の手直しを進めていた。しばらくして立ち上がると、急にめまいがジョンを襲った。家族がびっくりし、ベッドに横たえ医者を呼んだところ肺炎だとわかった。そしてすぐに130キロ離れたロスアンゼルスの病院に運ばれた。診察をすませた医者と看護婦が病室を出でいき、大丈夫かと思われたが数分後看護婦がもどったところ、すでにジョンは息をひきとっていた。最愛の二人の娘も、最後の瞬間を看とってやることができなかった。
1914年12月24日クリスマスイブの日の早朝、ジョン・ミュア、76歳だった。
あとがき
日本でのジョン・ミュアの知名度は、ほとんどないに等しいです。なぜこれほどまで歴史に貢献した人が日本では知られていないのか? それはやはり伝えられる本がなく、研究もされていなかったからです。私が書いたこれらの文章は山と渓谷社出版の加藤則芳著書、「森の聖者」自然保護の父ジョン・ミューアを参考に、簡単にまとめさせて頂きました。ジョン・ミュアの伝記としては、日本語でこれがただ一冊。日本の国立公園のあり方も、このジョン・ミュアが作り出したアメリカの国立公園が参考となって作られています。こうしたジョン・ミュアをもっと日本人に知って頂きたく、簡単ではありますがここに紹介させて頂きました。
加藤則芳氏は数年前、私が住むアメリカの日本語テレビ番組にて特別放送がされた番組で知りました。彼は大学卒業後、角川書店編集部に七年間勤務ののち、山に住みたい一心から退社。そして八ヶ岳山麓に移住しペンション業のかたわら、自然をテーマに執筆活動をしています。特別番組は加藤則芳氏が現在ある、ジョン・ミュア・トレイルという数百マイルの一本の道を、一ヶ月以上かけて歩く全工程のドキュメンタリーでした。ジョン・ミュア・トレイルとはヨセミテからアラスカを除くアメリカで一番高い山、マウント・ウィットニー山頂まで続く道で、ジョン・ミュアがこよなく愛したシェラネバダ山脈を横断できる道なのです。
100年も前にジョン・ミュアもやはり山に住みつきました。そして広大なシェラネバダ山脈をくまなく放浪した男は、加藤則芳氏が興味を持った出発点だそうです。こうした二人の類似点は、私にとっても一種の夢ではあるがかなえられません。しかしこの本を読み、ヨセミテとは何かジョン・ミュアとは誰か日本語で理解することができました。ジョン・ミュア著書の邦訳された本は、現在三冊あります。これらを読んだ私はジョン・ミュアの偉大さと今の自然のあり方を最大限に実感できるようになったのです。この文章を書くにあたり、「森の聖者」よりかなり参考にさせて頂きました。著者の加藤則芳氏にこの場を借り心よりお礼申し上げます。
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